
今日は用事があり、少し足を延ばして車を走らせていた。
台風の影響だろうか。時に土砂降りの雨が打ちつけ、風は恐ろしい速さで吹き荒れる悪天候だった。
ナビに目的地をセットして走り出したはずなのに、途中で見知らぬ道へと迷い込んでしまった。
「おいおい、しっかりしろよ自分……」
車内でひとり、思わず苦笑いが漏れる。
幾つになっても、機械の指示通りにスマートに進めない自分に、ちょっとした情けなさと歯がゆさを感じるものだ。
しかし、一歩その「正しいルート」から外れた今日の道は、まるで生き物のようだった。
林のなかの道を抜けるときには、強風にしなる木々から折れた枝や葉が、散弾のように路面へ落ちていた。
車に乗っているとはいえ、気分は完全に「自分の足」で歩いている感覚だ。
前後左右の警戒はもちろんのこと、上から落ちてくる枝、そして足元(路面)に落ちている障害物。
うっかりすれば足元をすくわれてしまう。まさに上下左右、360度の全方位に神経を研ぎ澄ませる走りだった。
シートに深く腰掛け、一度背伸びをしてからすっと肩の力を抜く。
骨盤を立てて姿勢を整え、足元の感触を確かめながらハンドルを握り直すと、荒れた道と自分がひとつになっていくような不思議な手応えがあった。
——ふと、そんな嵐の道中で考えたことがある。
世の中で言われる「エリート」という言葉についてだ。
「エリート」という言葉で人をねじ伏せたり、ありがたがったりする風潮がある。だが、本来の語源(フランス語のélite)は「選び抜かれた最高の見本・指導者」という意味だ。
決して「テストの点数が良い」「クイズのように答えを暗記するのが上手い」という意味ではない。
昭和、平成、令和と時代が移り変わるなかで、いつの間にか「ナビの指示通りに最短距離を正解へたどり着く暗記力」ばかりが評価されるようになってしまった。
しかし、書いてあることを覚えてきただけの人間は、教本(ナビ)のない嵐の現場に放り出されたとき、何もできなくなる。現場での応用動作が利かないのだ。
日本の「失われた30年・40年」と言われる長い停滞の正体も、結局はここに行き着くのではないだろうか。
時代や環境の変化という激しい嵐のなかで、指導層と呼ばれる人間たちは足元(現場のリアル)を見失い、教科書通りの発想から抜け出せなかった。
根本的な原因を取り除くような「手術(改革)」を恐れ、消費税のような手っ取り早い対症療法や、複雑なルール・税制をその場しのぎで継ぎ足し続けてきた。
古い法律を放置したまま、絆創膏を貼り重ねた結果、制度そのものが複雑化し、がん細胞のように肥大化して首が回らなくなっているのが今の世の中だ。
バサッと病巣を切り取る覚悟も、現場に合わせた柔軟な応用動作も持たないまま、中途半端なやり方を続けてきたからこそ、この停滞が存在するのだと思う。
本当の指導者、真のエリートとは何なのか。
それは、安全な部屋で教科書を暗記した人間ではなく、激しい雨風のなかで自らハンドルを握り、足元の荒れた路面を踏みしめ、360度の変化に五感を研ぎ澄ませて立ち向かってきた人間のことではないだろうか。
私たちはつい、人生や世の中の「道」というと、ナビが示してくれるような「最短ルート」や「効率の良さ」ばかりを追いかけてしまいがちだ。政治や社会の舵取りだって同じかもしれない。
けれど、本当の「道」を味わうというのは、そういうことではないはずだ。
時には道に迷って自分に呆れるような遠回りをし、嵐の風に煽られながらも、今この瞬間の足元をしっかり見つめ、360度すべての風を感じてハンドルを握り直す。
綺麗な直線コースばかりが道じゃない。
予期せぬ風が吹き、足元を気にしながら進む泥臭い遠回りにこそ、人間らしい生々しい手応えと、かけがえのない教訓が詰まっている。
今日もまた、少しのゆとりと感謝を胸に、自分自身の「道」をしっかりと噛みしめて進みたい。







